仏教行事・儀式解説

◾️春の行事「花まつり」

八幡仏教会(滋賀県近江八幡師)の恒例行事「花まつり」

八幡仏教会(滋賀県近江八幡師)の恒例行事「花まつり」 「花まつり」とは、お釈迦様の誕生日のお祝いです。

お釈迦様は、生まれると同時に右手を天上、左手を天下に向けて「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言い放ったと伝わります。

「天上天下」とは、四方八方に上下を加えた「十方」、この広大な宇宙全体を現し、この広い宇宙の中で命を頂き、生まれでてきたことは奇跡であり、すごいことであります。

人も動物も植物も、それぞれの命は、皆、唯一無二の存在、他には無い存在、尊い存在なのです。命は尊いものですから、この世界に生まれた、すべての命を大切にしようと気づきました。

近江八幡は全国でもお寺の多い地域です。この街が「愛のある祈りの街」であり続けますよう祈念いたします。

近江八幡市仏教会会長 正禅  稽顙九拝

花まつりの詳細は、下記記録ビデオをご覧ください!

 

◾️夏の行事「盂蘭盆会」

盂蘭盆会(うらぼんえ)」は、夏のお盆の行事のことです。ご先祖様・親・兄弟姉妹・親族など、故人が現世に戻り、故人を偲び、食べ物などをお供えして感謝を申し上げて供養する儀式です。

では、なぜ「お盆」というのでしょうか?「お盆」は略語です。日本人は略するのが好きですね。「お盆」の正式名称は「盂蘭盆(うらぼん)」です。サンスクリット語の発音「ウラバーニャ」を音で漢字表記したのが「盂蘭盆」。

では、サンスクリット語の「ウラバーニャ」とは何を意味するのでしょう。ずばり「逆さ吊り」という言葉です。えっ?お盆が「逆さ吊り」??? どういうこと????

これには、以下のようなお話があります。

お釈迦様の弟子の一人に、目連(もくれん)という僧がおりました。目連は非常に優秀で修行にも励み、ある日、神通力を得て、瞑想をしていると、亡くなった自分の母が地獄で逆さ吊りの刑を受けている様子を見てしまいました。驚いた目連は、お釈迦様に相談しました。

「お釈迦様、私の母が地獄に落ちて逆さ吊りとなっていました。哀れな母をなんとか救いたい。どうすれば母を救えるでしょうか?」

お釈迦様は、しばらく目を閉じたのち、目連に、このように答えました。

「目連よ、あなたの母は理由があって、逆さ吊りの刑にあっているのだ。例えば、あなたが幼少のころ、あなたの友達が遊びに来たとき、「喉が渇いたので水がほしい」と言ったが、目連の母は「お前にやる水など無い!」、「お腹が空いたので食べ物が欲しい」と言ったが、「お前にやる食べ物など無い!」という行為があった。目連には、なんでも与え、愛情をもって育てたが、自分の子供以外には、なにひとつ施しをしなかったのだ。」

自分の子供は大事にしたが、他人にはひどい仕打ちをしていた母だったのでしょう。現代でいうモンスターパーレンツのような母だったのでしょう。

目連は、お釈迦様に問いました。「どうすれば、母を逆さ吊りの状態から救えるのでしょうか?」

お釈迦様は目連に言いました。「あなたの母が現世でやらなかったことを、あなたが母の代わりに現世で行うのです。そうすれば、母を救うことができるかもしれません。」

お釈迦様のお話を聞いた目連は、その後、困った人や飢えた人に水や食べ物を与え、母を救い供養するため、その後も施食、布施を行いました。

これがお盆の始まりのお話です。お盆に、故人を偲んで祭壇を作り、食べ物や飲み物をお供えし、故人への感謝を念じ、故人を思い出して偲ぶ。これが「お盆」の行事となったのです。お盆の供物は、お供えが終わったあと、皆で分け合うことで施食となります。

お釈迦様は、自分にも他人にも動植物にも、そして環境にも愛情をもって接し、困っている人がいれば助け、布施を行う、そういう心をたくさんの人々が持てば、どんな時代であっても、そこに住まう人々が幸せに過ごせると考えていたと思います。

このような心をもって、今年のお盆を迎えたいものです。

(記 普陀山妙法寺 正禅住職)

 

◾️「施餓鬼法会」とは?

お釈迦様の弟子の中で、一番、知恵に優れていたアーナンダ(阿難陀尊者)という僧がおりました。ある日、アーナンダが、山にこもって修行をしていると、目の前に、ある者が現れました。その者は、体はやせ細ってガリガリ、針金のような髪の毛、そして口から火を吐き、頭からは煙が立ち上っています

その者は、アーナンダに「そんな修行などやっていても、なんにもならないぞ。修行などやるなやるな!そんなことをしていると、お前さんも3日のうちに、私と同じようになるぞ!」と言いました。

びっくりしたアーナンダは、すぐさまお釈迦様のところに行き、尋ねました。「あの者はいったいなに者なんでしょう?」お釈迦様はしばらく目を閉じていましたが、アーナンダにこう言いました。「アーナンダよ。その者は餓鬼(ガキ)という鬼である。餓鬼は、そもそもは人間であったが、現世の中で、貪り(むさぼり)、貪欲(どんよく)の業を行なった結果、地獄界のひとつである餓鬼界に落ちた者である。

餓鬼界とは、食べ物は周りにたくさんあるのですが、食べようとして食べ物を口の前にもっていくと、口から吐いた火で燃えてしまう場所です。食べたいのに食べれないという苦しみを味わうのです。現世での業の報いでしょうか。

続いてアーナンダはお釈迦様に尋ねました。「3日のうちに、お前も同じようになると言われました。どうしたらよいでしょうか?」お釈迦様は答えます。「餓鬼の言うことなど、真に受けずとも大丈夫である。あなたは、迷わず修行を続けなさい。されど、餓鬼といえども哀れである。年に1度ぐらい、餓鬼に食べ物を施し供養してあげなさい。」ここにもお釈迦様の慈悲(じひ)の心が現れています。慈悲とは、痛み悲しんでいる人を暖かく見守り、助けてあげる気持ち、心です。

これ以降、アーナンダは毎年、餓鬼を現世に招待し、餓鬼に食べ物を施す「施食」を行うようになりました。これが施餓鬼会の始まりです。

悪い所作をした子供のことを「悪ガキ」と表現しますが、この「ガキ」とは、まさに「餓鬼」を指しています。要するに飢えた鬼のことが餓鬼なのです。子供は貪欲ですから、ある意味餓鬼でもあります。しかし、その餓鬼に慈悲の心を教え、独り占めしない、周囲の友達にも分け与える心を持つように教えるということです。子供に限らず、大人であっても餓鬼になっている人がいますね。あまりにも独り占めし過ぎたり、人に分かち合わない業が多いと、あなたも餓鬼界に落ちて、いつもお腹が空いた。。。。となってしまいますから気をつけましょう。

お寺で執り行われる「施餓鬼」法要では、子供達にお供え物や菓子を撒いたり、参拝者に供物を配ったりしています。これは、アーナンダが行なった「食べ物を皆に分け与える・餓鬼であっても、この日だけはお腹一杯食べさせてあげる」という供養で、儀式の中で地獄の釜を開いて、餓鬼界から餓鬼を現世に呼び寄せ、そして施食します。参拝した子供たちが餓鬼の代わりとしてお菓子を拾い集めるわけです。施食することの大切さを参拝者が再認識する法要でもあります。

妙法寺では、例年8月19日に「施餓鬼会」を執り行っています。撒いたお菓子を子供達が取り合います。小さい子よりも、大きいお兄ちゃんは、撒いたお菓子をたくさん拾うことができます。でも、法要が終わった後、大きいお兄ちゃんは、自分が取ったお菓子を、あまりとれなかった小さな子に分けていた光景を見たことがあります。これが、まさに慈悲の心であり、そして、慈悲の心を持った大きいお兄ちゃんは、今後の人生において大切な、大きな宝を得たことでしょう。

(記 普陀山妙法寺 正禅住職)

愛のある祈りの街 近江八幡